『医療裁判で真実明らかに?1』
の続きです。
裁判っていうのは、医療裁判であれなんであれ、
「合法的なけんか」ですからね、言い方を変えれば。
自分にとって都合の悪い事は証言しなくても良い、
という憲法でも認められた権利、「黙秘権」もあるし。
医療事故に遭われた方や遺族の方達って、
「何が起きたのか真実が知りたい」と言いますが。
現実問題としては、裁判をしても、
むしろわからない事が多い、というのが現状です。
それは、裁判というのはそういう「システム」
なんだから、しょうがないんです。
そいで、桑江先生の話は、
医療とか、手術の歴史について。
それと、世界の分娩時の母体死亡率と、
日本の母体死亡率の比較。
分娩で命を落とす母親は、世界の平均では250人に1人。
アフガニスタンでは10万分娩につき1900人。
10万の分娩につき命を落とす母親は、
アフリカ全体では830人、アジアでは330人、
オセアニアでは240人、ヨーロッパでは24人
という数字であるが、日本では5~6人。
日本は、スウェーデンと並び世界で最も安全に
分娩ができる国の1つなのだが、0人の国はない。
というのが、前半の話。
後半は、医療とはどういうものかっていう話で。
医療は、人間を器械を修理するように
治療するわけにはいかない。
人間は不完全であり、間違えることもあるが、
仕事が医療であるということと、
不完全な人間が医療を行うという現実は
変えることができない。
医療を仕事とした途端に、
神として振る舞うことを要求される。
その結果、医療崩壊が進んだ。
という話でしたね。
そいじゃあ、今日は、その続きを書いていきましょうか。
いよいよ本題、「医療裁判」の話が出てきますよ。
「医療裁判で真実が明らかになるのか」
―対立を超えて・信頼に基づいた医療を再構築するためにー
2008.8.30 都立府中病院産婦人科部長
桑江千鶴子
(3) 産科医療について
今回の福島県立大野病院事件について、
結果無罪が確定したとはいえ、我々産科医としては
これで問題が解決したわけではない。
もし有罪であったら産科医療崩壊は
加速度がついた状態で手の打ちようがなくなったと思うが、
今しばし時間の猶予があるかもしれない、
という状態になっただけで本質は何も変わっていない、
と現場の産婦人科医は考えている。
なぜ産科医療が特に医療崩壊の
先頭をきっているかといえば、
分娩は急変するし予見が難しいからである。
しかも、新しい命を生み出すという、
人間にとってあるいは人生でも最も喜びに満ちた瞬間が
得られるという期待があり、その期待が
一瞬にして打ち砕かれるという残酷な結果があり、
しかも妊娠が許可されているような
若く健康である妊婦さんに起こる悲劇であるので、
遺族の方にとっては容認できるような
状態ではないからである。
病気という認識がないし、分娩が危険であるという
認識も昨今では失われているからである。
これは近代産科学が血のにじむような思いをして
作り上げた結果であるが、
「分娩の安全神話」がまかり通ってしまったためでもある。
本来の分娩は冒頭に述べたように、
実に危険を伴うものであるが、日本では
10万人に5~6人位しか命を落とさず、
身近に感じるような危険では
なくなってしまったからでもある。
そうは言っても日本ですら交通事故で死亡する確率と
同じくらいであるので、それほど少ないわけでもない。
いくら説明を尽くしても、家族が当初から
分娩が安全であると思っていれば、
結果が母体死亡である場合には、
医療ミスではなくても、
遺族に理解してもらうことは不可能に近い。
誰かの責任にしなければやりきれない、
娘や妻を失った無念の思いは晴れないのであろう。
現在では、母体死亡はまず医療裁判になるので、
面倒なことにはかかわりたくないとして、
産科医を志望する医学生は減り続け、
また基幹病院特に公的病院からのベテラン医師、
中堅医師の現場からの兆散が止まらない。
今回の無罪確定をうけても
現実の産科医療崩壊は止まらないと思う。
私が現場にとどまっている理由は、
自分では先輩達が血のにじむ思いをして取得してきた
産婦人科医療技術を次の世代に渡したいからである。
医療技術は失うのは簡単だが、
今後取得することはもうできないと思う。
日本の産婦人科は、外科もそうだと思うが、
技術的には世界的に見ても優れたものを持っていて、
私たちは先輩から誇りを持って教わってきた。
子宮癌における岡林術式―広汎子宮全摘術、
日本で完成された骨盤位分娩を安全に
経膣的に行う方法、やはり日本の辻先生が完成された
様々な経膣的手術、その他多くの医療技術は、
長い年月をかけて訓練され、
自分でも努力して習得してきた。
多くの産婦人科医が臨床を離れていく現場で、
このような技術は急速に失われていくと思われる。
もし将来的によい時代が来るとして、
細々とでも炎が残っていれば、オリンピックの聖火のように
また燃え上がる炎にすることができるかもしれないが、
一度消えてしまえば二度と火をおこすことはできないだろう、
という思いが私を現場に留まらせている。
多くの外科系医師が私と同じ思いであろうと想像する。
産科医療は、短時間に急変して
母子ともに危険な状態になることを
他科の医師にすら理解してもらうことが困難であるので、
医療事故になる割合が高く裁判になることが多くても
孤立しがちであったが、大野病院の事故については
多くの医師の同情と共感と危機意識の共有ができた
貴重な経験であったと思う。
今後も、踏みとどまっている現場の医師は、
より良い医療を提供するために積極的に議論し、
新しい医療体制を構築してゆきたいと考えているし、
このような医師がいる間に
議論が煮詰まってくれることを念じている。
しかし、それほど時間が残されているとは思えない。
(4)「何が起こったのか真実を知りたい」にこたえるために
医療事故が起きたと仮定すると、
家族がその場に居合わせるということが
日常的には行われておらず、
特に手術室の中であったりした場合には、
その状況を正確に家族に伝えることが
現実にはできていない、という問題がある。
医療裁判を起こす理由として、
「何が起きたのか真実を知りたい」
という家族の願いがある。
裁判所は真実を裁判で明らかにしてくれるだろう、
あるいは明らかにしてくれるに違いない、
という家族の期待がある。
そして、家族の医療側への不信感として、
医師は嘘をついている、カルテの改ざんが行われている、
医療者は口裏を合わせてかばい合っているに違いない、
といった感情があるし、現在は、
残念ながらそういった事実もあるであろう。
しかし、ここで冷静になって考えて欲しいのは、
「正直に何があったのか事実を話してほしい。
でも正直に話せば、罰を受けますよ。」
という状況で事実を話すということが、
人間の性(さが)として有り得るのか、ということだ。
有名なワシントンの桜の木の話は、
お父さんの大事にしていた桜の木を誤って切ってしまった、
という事実があって、正直に話したら怒られるだろうから
話したくなかったが、正直に話したら、
意外なことに褒められた、だから勇気を出して
本当のことを話せばいいことがありますよ、
ということだ。
後にアメリカの初代大統領になるくらいの人物であるから、
普通の子供ではなかったであろうが、
それでも結果がまずくいっているときに
正直に話すということはすごく勇気がいることだという
逸話があるくらい、何か結果が悪く出たのを
自分で知っていて、正直に話すということは
大変苦痛を伴うことである。
「褒められる」というご褒美があるかもしれないから、
正直に話しなさい、と逸話はいっているのである。
これがご褒美どころか、正直に話せば話すほど
自分が罰せられるという状況で、
医療という仕事をしているの
(はあなたが悪いの)であるから、
そのような罰則付きであろうが、
逮捕され勾留されるかもしれないが、
正直に事実を話さなければならない、
と言っているのが、現在の医療裁判の論理である。
これでは、我々医療者は苦しくて仕方がない。
こんなつらい仕事はやめてしまおう、
と言って現場を離れているのである。
人間の性(さが)を理解しないで制度を作れば、
破たんするあるいはうまく機能しないことは目に見えている。
いざ裁判になれば、自分に不利になる事実は
話さなくても良い、ということで人権が守られているので
「黙秘権」が適応されるし、
行使することも当たり前にできる。
医療者といえども日本国民であること、
人権が守られている存在であることは
何人も否定しようのない事実であろうから、
医療裁判でも黙秘権は行使できる。
しかしそうした場合には、
「何が起こったのか真実を知りたい」という願いは
永遠にかなわないことになる。
人間性についての理解が共通認識でなければ、
深い溝はいつまでも埋まらない。
まず何よりも、そこで働いている人・
かかわったすべての人に事実を
ありのままに話してもらうことが絶対に必要だ
というのであれば、「事実を正直に話してもらう」ためには、
そうしたところで個人は不利な扱いを受けない、
ということを共通理解としなければ無理だと思う。
目の前に鞭を持っていて「正直に話せば鞭で打ちますよ。」
と言っていたら、人間は弱い存在であるので、
誰も話しはしないだろう、という想像力を持ってほしいと思う。
おおむね日本以外の国ではそうした制度になっていることは、
理由があると考えて欲しい。
ここで問題にしなくてはならないのは、
「医療事故」は本当にその個人だけの責任なのか、
ということである。個人を罰すれば解決するのか、
それが最終目的なのか、それが再発防止になるのか、
という点についても考える必要がある。
裁判という手段は個人を対象にするのであるから、
どうしても個人を裁かざるを得ないが、
それが最良の手段であるのか、ということだ。
事実を知ることは基本である。
その上で、なぜ起こったのかを皆で考えて、
再発防止をするためにはどうしたらいいかを考える、
という道筋において、まず事実を知るためには、
そうすることで個人は不利な扱いを受けない、
という大原則を打ち立てて守らなければならない。
もし、そういうことが共通理解になったら、
誰もカルテを改ざんしたりはしないだろう。
嘘をつく必要も、お互いをかばいあう必要もなくなる。
客観的に事実を知ることだけが真に必要であれば、
事実を話さないということに対して
罰則を設ければよくなる。
事実を話さないほうが不利な扱いを受けるのであれば、
事実を話さざるをえなくなるだろう。
人間性としては、その方がはるかに自然だ。
医療者への不信感が払拭されれば、
もっとずっと医療事故についても受け止めやすくなるし、
その結果として事実確認も容易になり、
補償についてあるいは再発防止の話し合いに
すぐ移れると思う。
患者家族の悲嘆や悲しみを受け止める機関は
必要だと思うが、そこには失われたものへの
悲しみはあっても、医療者への不信感が生じなくなるだけ、
まだ前向きな気持ちになりやすいのではないだろうか。
かかわった医療者も結果が悪くでれば
平静ではいられない。
人間であるし、もともとそういう病気と向き合おうとして
医療従事者になっているのである。
動揺し、悲嘆にくれているのは家族ばかりではなく、
医療者もまた動揺し悲しみにくれているのである。
そういった経験がその後の仕事や
人生に及ぼす影響も無視できない。
医療者もまた深く傷ついているのだ。
医療事故や裁判をきっかけに、
それが有責になっても無責であっても、
臨床医を辞めてしまう医師は後をたたない。
こうして貴重な人材が裁判のたびに失われていく。
不利な条件でも積極的に患者の命を救おうとした
医療者ほど、リスクのある治療を引き受けるので、
結果として医療事故にあいやすい。
したがって辞めていく医師は深く傷ついて居り、
臨床現場に戻ることはない。
これは大変な損失と言える。
一人の熟練した医師を育てるのには、
大学医学部を卒業してからも、10年以上かかる。
そう簡単に補充できるような状態ではない。
後に続く医師は、そうした現状を目の当たりに見るので、
同じ道には進もうとしない。
そうではなく、もし、共通した悲しみに向き合うことが
個人攻撃なくでき、医療裁判という手段で
解決するという道がなくなるのであれば、
再発防止や保障の話し合いも積極的に進み、
医療レベルの向上にもすぐ取りかかれると思う。
貴重な人材を失うことも少なくなるだろう。
それなのに双方を対立させ、感情的に憎ませ、
怒りを持続させ、裁判を行っている間の
長い間に繰り返し現場を再現させることで、
その感情的対立は否が応でも激しくなる。
医療事故が起きれば、医療側も当然反省したり
後悔しているし、あの時にこうしていれば良かったかもしれない、
ということも当然考えている。
そうした思いから次により良い治療に
つなげることもできるかもしれないし、
どうしたら防げただろうか、という対策に
つながると思うが、裁判になれば、
勝つことを考えなければならず、
そういう前向きな対策よりも
目の前の裁判のことだけしか考えられなくなる。
裁判にかかわったことがある人であれば
理解してもらえると思うが、そのために費やすエネルギーは
膨大でしかも負のエネルギーである。
時間もかかる。できるだけ短時間で事実を明らかにして、
どうしてそういう事故が起きたのかを検証できれば、
次につながる状況が作れるのにと思うと、
現在の状況は実に残念と言わざるをえない。
医療裁判は、双方にとって良いことは何もない。
被害者感情としては、
「懲罰感情」「報復感情」があると思うが、
医療者への憎しみや怒りを、その個人に
刑罰を与えるという最終目的に置き換える、
個人を罰するということが達成されるということで、
家族は本当に満足するのだろうか。
あるいはそれが唯一無二の慰められる方法なのだろうか。
医療者への憎しみや怒り・懲罰感情・報復感情と
「真実を知りたい」・「再発を防止したい」ということと、
両方の願いを一度に満足させ成り立たせることはできない。
前者を徹底させれば、おそらく医療現場に残る人間は
だれ一人いなくなる。
なぜなら人間は、完全でもなく完璧でもなく
誤りを犯す存在だからである。
現在でも、外科系診療科現場から医師は撤退し、
残っている医師も手術を回避したり、
少しでも危ない治療や検査はやりたがらない
状態になっており、そういう意味では
医療内容的にも医療崩壊が進んでいる。
医師がいなくなるばかりではなく、
その内容的にも崩壊が進行している。
大局的にみてどういう方法が真に国民のためになり、
できるだけ安全な医療をどうしたら再構築できるのか、
感情的にならずに議論するべきと考える。
医療の進歩について考えると、医療裁判が
これだけ増加していて委縮医療が進んでいると、
あらかじめ評価の定まった治療法しか
提示できなくなるし、うまくいかなかった症例を
皆で共有して改善しようという動きも抑制される。
そういう事例を提示すること自体が危険であるので、
誰も提示しなくなる。
今もそのような動きが進行している。
つまり医療の進歩にも赤信号がともることになる。
その影響の大きさは、しばらく時がたたないと
目に見えるような形にはならないだろうが、
そうなったときには立て直すにも
大変な時間と労力が必要になる。
医療事故が起きた原因が医療提供体制に
問題があるのであれば、体制を改善しなければならない。
その責任は、その医療施設の設置者あるいは
医療制度を整えるべき立場にある国にある。
改善すべきところは改善し、正さなければならないところは
正さなければならない。
ただ、その個人に問題があることも当然ありうるが、
その時には評価して研修する制度をつくるなり、
その個人がその仕事にふさわしいか、
免許剥奪を最終手段として、そういうことなどを
判断することが必要となる。
医療に従事するにあたり必要な免許を付与しているのは
国であるから、当然国が中心になってそういった体制を
整えるべきだと思うが、その時に判断する中心となるのは、
専門家集団がそれにあたることが必要だろう。
医師であれば医師、看護師であれば看護師、薬剤師、
検査技師、放射線技師、等々。
どうしても専門的判断が必要になるし、
専門外の人間には理解しがたい事例は
必ず存在する。
専門家集団が責任をもって、その人物に対しての
評価や行った医療行為に対する判断をくだすにあたり、
ここでまたお互いをかばいあうのではないか
ということが不信感を持っていれば考えられる。
しかし、私は徹底的な情報の開示、透明性の確保がなされれば
そういうことはできないだろうと思う。
専門家の中でも良心的な人達というのは必ずいるので、
情報が開示されていれば、明らかにかばっていれば
他から見てもおかしいので、少なくてもその時の
医療レベルについて真摯な議論はできる。
議論の過程が公開されていれば、
透明性が確保されているので、プライバシーには
配慮するとしても、議論の質は落ちないだろうと思う。
医療界としても自浄能力が問われる事態となっており、
全力を尽くして自浄能力があることを証明しなくてはならない。
今後、お互いの不信感を払拭して、不必要で傷つけあい、
真実を明らかにするには実に不毛な裁判を
避けることができるのであれば、自浄能力を
いかんなく発揮して、このような制度を構築することは、
真にやりがいのある施策となるであろう。
立法・行政・司法とも協力して、このような
誰にとっても有益な制度を構築するために、
医療界あげて英知を尽くし、新しい制度を作るべきだと思う。
医療という自分の仕事を利用して、
故意に人を傷つけたり、死に至らしめたりすることは
明らかに犯罪であるので、今までの議論とは
一線を画さざるを得ない。
こういったことが疑われる場合には、
警察の捜査が必要であろうが、警察への通報を
誰が行うかという問題は残る。
家族がいきなり警察に通報するというのも不自然であり、
通常は医療施設に訴えて判断してもらったり、
調査してもらったりするのが普通であろう。
その上で「この事例は医療事故ではなく犯罪だろう」とか、
故意に傷つけたり死亡させたりした疑いがあるのであれば、
警察の捜査がはいることになるのが自然だろうし、
その際に警察に通報するのは、
医療施設が行うことになるのが、
家族が納得する経過だろうと思う。
ただし、この辺については、
まだ議論の余地があるであろう。
『桑江千鶴子先生より』
福島大野病院事件をきっかけに、
医師ブログやインターネット等を通して、
「お産は必ずしも安全なものではない」
という事が、かなり広まったし。
ここ1年くらいは、既存のマスコミなんかでも、
そういった報道が広く行われるようになったし。
一般の人達もそう思っているんじゃないかなー、
と思っていたのですが。
桑江先生のこの文章
>現在では、母体死亡はまず医療裁判になるので、
というのは、ちょっとショックでしたね。
「お産は安全なものではない」、
という事は、医療関係者だけではなく、
昭和初期とか大正生まれとかの人達にとっては、
むしろ当たり前の事だ、と思われてはいるようですが。
若い方にとっては、「お産は絶対に安全だ」
という意識の人達の方が多いのでしょうかねー。
「お産は絶対に安全なものではない」
という事は、今の時代であれば、
お産の前に必ず医師は妊婦さんや家族に
言っているのだとは思いますけど。
それでも、裁判になってしまうのですね。
非常に残念です。
「医療事故被害者」という言葉がありますけど。
じゃあ、医師は加害者なのか。
っていうと、そうではないんですよ。
あくまでも、病気で亡くなった患者さん。
という場合も、非常に多いんですよ、実際は。
台風でも地震でも。
加害者がいなくても、人が亡くなる場合もあるでしょ。
医療での被害者にも、加害者がいない。
という場合も、あるんですよ。
というか、加害者がいない場合も、
相当たくさんあると思います。
お産の場合は、亡くなる方が健康で
若い方が多いですから。
亡くなって残念だ、という考えも非常に良くわかるのですが。
医者や病院が悪くなくても、患者さんが
亡くなる場合も多いのですからね。
そういう時に、遺族の方からの
怒りの矛先が医師や病院に向かってしまって。
結局、医療裁判になってしまった。
裁判になると、システムの問題上、
真実がわからない場合も多いですから。
結局、遺族の方達も納得できない。
医師の側も、加害者ではないのに、
加害者として扱われて。
裁判で、ものすごい労力を使って、疲弊する。
マスコミで犯罪者の様に報道されたら、
それだけで疲れ切ってしまって、
医療の現場から逃散してしまう。
という事も、実際にはありますよね。
そんな事になったら、結局は、患者の為にも
国民の為にも、医師の為にもなりません。
そうならないためには、
裁判以外の別のシステムを作る、
という事が重要だと思います。
無過失保証制度とか、
医療事故(安全)調査委員会とか。
そういうのが、そうなるんでしょうか。
方向としては、正しいのだとは思いますが。
各論に入ると、
「なんか別の方向に行っているんじゃないかなー」
というのが、個人的な感想ですね。
『「大学病院のうそ」 ~現役医師(Dr. I)が暴露する、大学病院の秘密』
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の続きです。
裁判っていうのは、医療裁判であれなんであれ、
「合法的なけんか」ですからね、言い方を変えれば。
自分にとって都合の悪い事は証言しなくても良い、
という憲法でも認められた権利、「黙秘権」もあるし。
医療事故に遭われた方や遺族の方達って、
「何が起きたのか真実が知りたい」と言いますが。
現実問題としては、裁判をしても、
むしろわからない事が多い、というのが現状です。
それは、裁判というのはそういう「システム」
なんだから、しょうがないんです。
そいで、桑江先生の話は、
医療とか、手術の歴史について。
それと、世界の分娩時の母体死亡率と、
日本の母体死亡率の比較。
分娩で命を落とす母親は、世界の平均では250人に1人。
アフガニスタンでは10万分娩につき1900人。
10万の分娩につき命を落とす母親は、
アフリカ全体では830人、アジアでは330人、
オセアニアでは240人、ヨーロッパでは24人
という数字であるが、日本では5~6人。
日本は、スウェーデンと並び世界で最も安全に
分娩ができる国の1つなのだが、0人の国はない。
というのが、前半の話。
後半は、医療とはどういうものかっていう話で。
医療は、人間を器械を修理するように
治療するわけにはいかない。
人間は不完全であり、間違えることもあるが、
仕事が医療であるということと、
不完全な人間が医療を行うという現実は
変えることができない。
医療を仕事とした途端に、
神として振る舞うことを要求される。
その結果、医療崩壊が進んだ。
という話でしたね。
そいじゃあ、今日は、その続きを書いていきましょうか。
いよいよ本題、「医療裁判」の話が出てきますよ。
「医療裁判で真実が明らかになるのか」
―対立を超えて・信頼に基づいた医療を再構築するためにー
2008.8.30 都立府中病院産婦人科部長
桑江千鶴子
(3) 産科医療について
今回の福島県立大野病院事件について、
結果無罪が確定したとはいえ、我々産科医としては
これで問題が解決したわけではない。
もし有罪であったら産科医療崩壊は
加速度がついた状態で手の打ちようがなくなったと思うが、
今しばし時間の猶予があるかもしれない、
という状態になっただけで本質は何も変わっていない、
と現場の産婦人科医は考えている。
なぜ産科医療が特に医療崩壊の
先頭をきっているかといえば、
分娩は急変するし予見が難しいからである。
しかも、新しい命を生み出すという、
人間にとってあるいは人生でも最も喜びに満ちた瞬間が
得られるという期待があり、その期待が
一瞬にして打ち砕かれるという残酷な結果があり、
しかも妊娠が許可されているような
若く健康である妊婦さんに起こる悲劇であるので、
遺族の方にとっては容認できるような
状態ではないからである。
病気という認識がないし、分娩が危険であるという
認識も昨今では失われているからである。
これは近代産科学が血のにじむような思いをして
作り上げた結果であるが、
「分娩の安全神話」がまかり通ってしまったためでもある。
本来の分娩は冒頭に述べたように、
実に危険を伴うものであるが、日本では
10万人に5~6人位しか命を落とさず、
身近に感じるような危険では
なくなってしまったからでもある。
そうは言っても日本ですら交通事故で死亡する確率と
同じくらいであるので、それほど少ないわけでもない。
いくら説明を尽くしても、家族が当初から
分娩が安全であると思っていれば、
結果が母体死亡である場合には、
医療ミスではなくても、
遺族に理解してもらうことは不可能に近い。
誰かの責任にしなければやりきれない、
娘や妻を失った無念の思いは晴れないのであろう。
現在では、母体死亡はまず医療裁判になるので、
面倒なことにはかかわりたくないとして、
産科医を志望する医学生は減り続け、
また基幹病院特に公的病院からのベテラン医師、
中堅医師の現場からの兆散が止まらない。
今回の無罪確定をうけても
現実の産科医療崩壊は止まらないと思う。
私が現場にとどまっている理由は、
自分では先輩達が血のにじむ思いをして取得してきた
産婦人科医療技術を次の世代に渡したいからである。
医療技術は失うのは簡単だが、
今後取得することはもうできないと思う。
日本の産婦人科は、外科もそうだと思うが、
技術的には世界的に見ても優れたものを持っていて、
私たちは先輩から誇りを持って教わってきた。
子宮癌における岡林術式―広汎子宮全摘術、
日本で完成された骨盤位分娩を安全に
経膣的に行う方法、やはり日本の辻先生が完成された
様々な経膣的手術、その他多くの医療技術は、
長い年月をかけて訓練され、
自分でも努力して習得してきた。
多くの産婦人科医が臨床を離れていく現場で、
このような技術は急速に失われていくと思われる。
もし将来的によい時代が来るとして、
細々とでも炎が残っていれば、オリンピックの聖火のように
また燃え上がる炎にすることができるかもしれないが、
一度消えてしまえば二度と火をおこすことはできないだろう、
という思いが私を現場に留まらせている。
多くの外科系医師が私と同じ思いであろうと想像する。
産科医療は、短時間に急変して
母子ともに危険な状態になることを
他科の医師にすら理解してもらうことが困難であるので、
医療事故になる割合が高く裁判になることが多くても
孤立しがちであったが、大野病院の事故については
多くの医師の同情と共感と危機意識の共有ができた
貴重な経験であったと思う。
今後も、踏みとどまっている現場の医師は、
より良い医療を提供するために積極的に議論し、
新しい医療体制を構築してゆきたいと考えているし、
このような医師がいる間に
議論が煮詰まってくれることを念じている。
しかし、それほど時間が残されているとは思えない。
(4)「何が起こったのか真実を知りたい」にこたえるために
医療事故が起きたと仮定すると、
家族がその場に居合わせるということが
日常的には行われておらず、
特に手術室の中であったりした場合には、
その状況を正確に家族に伝えることが
現実にはできていない、という問題がある。
医療裁判を起こす理由として、
「何が起きたのか真実を知りたい」
という家族の願いがある。
裁判所は真実を裁判で明らかにしてくれるだろう、
あるいは明らかにしてくれるに違いない、
という家族の期待がある。
そして、家族の医療側への不信感として、
医師は嘘をついている、カルテの改ざんが行われている、
医療者は口裏を合わせてかばい合っているに違いない、
といった感情があるし、現在は、
残念ながらそういった事実もあるであろう。
しかし、ここで冷静になって考えて欲しいのは、
「正直に何があったのか事実を話してほしい。
でも正直に話せば、罰を受けますよ。」
という状況で事実を話すということが、
人間の性(さが)として有り得るのか、ということだ。
有名なワシントンの桜の木の話は、
お父さんの大事にしていた桜の木を誤って切ってしまった、
という事実があって、正直に話したら怒られるだろうから
話したくなかったが、正直に話したら、
意外なことに褒められた、だから勇気を出して
本当のことを話せばいいことがありますよ、
ということだ。
後にアメリカの初代大統領になるくらいの人物であるから、
普通の子供ではなかったであろうが、
それでも結果がまずくいっているときに
正直に話すということはすごく勇気がいることだという
逸話があるくらい、何か結果が悪く出たのを
自分で知っていて、正直に話すということは
大変苦痛を伴うことである。
「褒められる」というご褒美があるかもしれないから、
正直に話しなさい、と逸話はいっているのである。
これがご褒美どころか、正直に話せば話すほど
自分が罰せられるという状況で、
医療という仕事をしているの
(はあなたが悪いの)であるから、
そのような罰則付きであろうが、
逮捕され勾留されるかもしれないが、
正直に事実を話さなければならない、
と言っているのが、現在の医療裁判の論理である。
これでは、我々医療者は苦しくて仕方がない。
こんなつらい仕事はやめてしまおう、
と言って現場を離れているのである。
人間の性(さが)を理解しないで制度を作れば、
破たんするあるいはうまく機能しないことは目に見えている。
いざ裁判になれば、自分に不利になる事実は
話さなくても良い、ということで人権が守られているので
「黙秘権」が適応されるし、
行使することも当たり前にできる。
医療者といえども日本国民であること、
人権が守られている存在であることは
何人も否定しようのない事実であろうから、
医療裁判でも黙秘権は行使できる。
しかしそうした場合には、
「何が起こったのか真実を知りたい」という願いは
永遠にかなわないことになる。
人間性についての理解が共通認識でなければ、
深い溝はいつまでも埋まらない。
まず何よりも、そこで働いている人・
かかわったすべての人に事実を
ありのままに話してもらうことが絶対に必要だ
というのであれば、「事実を正直に話してもらう」ためには、
そうしたところで個人は不利な扱いを受けない、
ということを共通理解としなければ無理だと思う。
目の前に鞭を持っていて「正直に話せば鞭で打ちますよ。」
と言っていたら、人間は弱い存在であるので、
誰も話しはしないだろう、という想像力を持ってほしいと思う。
おおむね日本以外の国ではそうした制度になっていることは、
理由があると考えて欲しい。
ここで問題にしなくてはならないのは、
「医療事故」は本当にその個人だけの責任なのか、
ということである。個人を罰すれば解決するのか、
それが最終目的なのか、それが再発防止になるのか、
という点についても考える必要がある。
裁判という手段は個人を対象にするのであるから、
どうしても個人を裁かざるを得ないが、
それが最良の手段であるのか、ということだ。
事実を知ることは基本である。
その上で、なぜ起こったのかを皆で考えて、
再発防止をするためにはどうしたらいいかを考える、
という道筋において、まず事実を知るためには、
そうすることで個人は不利な扱いを受けない、
という大原則を打ち立てて守らなければならない。
もし、そういうことが共通理解になったら、
誰もカルテを改ざんしたりはしないだろう。
嘘をつく必要も、お互いをかばいあう必要もなくなる。
客観的に事実を知ることだけが真に必要であれば、
事実を話さないということに対して
罰則を設ければよくなる。
事実を話さないほうが不利な扱いを受けるのであれば、
事実を話さざるをえなくなるだろう。
人間性としては、その方がはるかに自然だ。
医療者への不信感が払拭されれば、
もっとずっと医療事故についても受け止めやすくなるし、
その結果として事実確認も容易になり、
補償についてあるいは再発防止の話し合いに
すぐ移れると思う。
患者家族の悲嘆や悲しみを受け止める機関は
必要だと思うが、そこには失われたものへの
悲しみはあっても、医療者への不信感が生じなくなるだけ、
まだ前向きな気持ちになりやすいのではないだろうか。
かかわった医療者も結果が悪くでれば
平静ではいられない。
人間であるし、もともとそういう病気と向き合おうとして
医療従事者になっているのである。
動揺し、悲嘆にくれているのは家族ばかりではなく、
医療者もまた動揺し悲しみにくれているのである。
そういった経験がその後の仕事や
人生に及ぼす影響も無視できない。
医療者もまた深く傷ついているのだ。
医療事故や裁判をきっかけに、
それが有責になっても無責であっても、
臨床医を辞めてしまう医師は後をたたない。
こうして貴重な人材が裁判のたびに失われていく。
不利な条件でも積極的に患者の命を救おうとした
医療者ほど、リスクのある治療を引き受けるので、
結果として医療事故にあいやすい。
したがって辞めていく医師は深く傷ついて居り、
臨床現場に戻ることはない。
これは大変な損失と言える。
一人の熟練した医師を育てるのには、
大学医学部を卒業してからも、10年以上かかる。
そう簡単に補充できるような状態ではない。
後に続く医師は、そうした現状を目の当たりに見るので、
同じ道には進もうとしない。
そうではなく、もし、共通した悲しみに向き合うことが
個人攻撃なくでき、医療裁判という手段で
解決するという道がなくなるのであれば、
再発防止や保障の話し合いも積極的に進み、
医療レベルの向上にもすぐ取りかかれると思う。
貴重な人材を失うことも少なくなるだろう。
それなのに双方を対立させ、感情的に憎ませ、
怒りを持続させ、裁判を行っている間の
長い間に繰り返し現場を再現させることで、
その感情的対立は否が応でも激しくなる。
医療事故が起きれば、医療側も当然反省したり
後悔しているし、あの時にこうしていれば良かったかもしれない、
ということも当然考えている。
そうした思いから次により良い治療に
つなげることもできるかもしれないし、
どうしたら防げただろうか、という対策に
つながると思うが、裁判になれば、
勝つことを考えなければならず、
そういう前向きな対策よりも
目の前の裁判のことだけしか考えられなくなる。
裁判にかかわったことがある人であれば
理解してもらえると思うが、そのために費やすエネルギーは
膨大でしかも負のエネルギーである。
時間もかかる。できるだけ短時間で事実を明らかにして、
どうしてそういう事故が起きたのかを検証できれば、
次につながる状況が作れるのにと思うと、
現在の状況は実に残念と言わざるをえない。
医療裁判は、双方にとって良いことは何もない。
被害者感情としては、
「懲罰感情」「報復感情」があると思うが、
医療者への憎しみや怒りを、その個人に
刑罰を与えるという最終目的に置き換える、
個人を罰するということが達成されるということで、
家族は本当に満足するのだろうか。
あるいはそれが唯一無二の慰められる方法なのだろうか。
医療者への憎しみや怒り・懲罰感情・報復感情と
「真実を知りたい」・「再発を防止したい」ということと、
両方の願いを一度に満足させ成り立たせることはできない。
前者を徹底させれば、おそらく医療現場に残る人間は
だれ一人いなくなる。
なぜなら人間は、完全でもなく完璧でもなく
誤りを犯す存在だからである。
現在でも、外科系診療科現場から医師は撤退し、
残っている医師も手術を回避したり、
少しでも危ない治療や検査はやりたがらない
状態になっており、そういう意味では
医療内容的にも医療崩壊が進んでいる。
医師がいなくなるばかりではなく、
その内容的にも崩壊が進行している。
大局的にみてどういう方法が真に国民のためになり、
できるだけ安全な医療をどうしたら再構築できるのか、
感情的にならずに議論するべきと考える。
医療の進歩について考えると、医療裁判が
これだけ増加していて委縮医療が進んでいると、
あらかじめ評価の定まった治療法しか
提示できなくなるし、うまくいかなかった症例を
皆で共有して改善しようという動きも抑制される。
そういう事例を提示すること自体が危険であるので、
誰も提示しなくなる。
今もそのような動きが進行している。
つまり医療の進歩にも赤信号がともることになる。
その影響の大きさは、しばらく時がたたないと
目に見えるような形にはならないだろうが、
そうなったときには立て直すにも
大変な時間と労力が必要になる。
医療事故が起きた原因が医療提供体制に
問題があるのであれば、体制を改善しなければならない。
その責任は、その医療施設の設置者あるいは
医療制度を整えるべき立場にある国にある。
改善すべきところは改善し、正さなければならないところは
正さなければならない。
ただ、その個人に問題があることも当然ありうるが、
その時には評価して研修する制度をつくるなり、
その個人がその仕事にふさわしいか、
免許剥奪を最終手段として、そういうことなどを
判断することが必要となる。
医療に従事するにあたり必要な免許を付与しているのは
国であるから、当然国が中心になってそういった体制を
整えるべきだと思うが、その時に判断する中心となるのは、
専門家集団がそれにあたることが必要だろう。
医師であれば医師、看護師であれば看護師、薬剤師、
検査技師、放射線技師、等々。
どうしても専門的判断が必要になるし、
専門外の人間には理解しがたい事例は
必ず存在する。
専門家集団が責任をもって、その人物に対しての
評価や行った医療行為に対する判断をくだすにあたり、
ここでまたお互いをかばいあうのではないか
ということが不信感を持っていれば考えられる。
しかし、私は徹底的な情報の開示、透明性の確保がなされれば
そういうことはできないだろうと思う。
専門家の中でも良心的な人達というのは必ずいるので、
情報が開示されていれば、明らかにかばっていれば
他から見てもおかしいので、少なくてもその時の
医療レベルについて真摯な議論はできる。
議論の過程が公開されていれば、
透明性が確保されているので、プライバシーには
配慮するとしても、議論の質は落ちないだろうと思う。
医療界としても自浄能力が問われる事態となっており、
全力を尽くして自浄能力があることを証明しなくてはならない。
今後、お互いの不信感を払拭して、不必要で傷つけあい、
真実を明らかにするには実に不毛な裁判を
避けることができるのであれば、自浄能力を
いかんなく発揮して、このような制度を構築することは、
真にやりがいのある施策となるであろう。
立法・行政・司法とも協力して、このような
誰にとっても有益な制度を構築するために、
医療界あげて英知を尽くし、新しい制度を作るべきだと思う。
医療という自分の仕事を利用して、
故意に人を傷つけたり、死に至らしめたりすることは
明らかに犯罪であるので、今までの議論とは
一線を画さざるを得ない。
こういったことが疑われる場合には、
警察の捜査が必要であろうが、警察への通報を
誰が行うかという問題は残る。
家族がいきなり警察に通報するというのも不自然であり、
通常は医療施設に訴えて判断してもらったり、
調査してもらったりするのが普通であろう。
その上で「この事例は医療事故ではなく犯罪だろう」とか、
故意に傷つけたり死亡させたりした疑いがあるのであれば、
警察の捜査がはいることになるのが自然だろうし、
その際に警察に通報するのは、
医療施設が行うことになるのが、
家族が納得する経過だろうと思う。
ただし、この辺については、
まだ議論の余地があるであろう。
『桑江千鶴子先生より』
福島大野病院事件をきっかけに、
医師ブログやインターネット等を通して、
「お産は必ずしも安全なものではない」
という事が、かなり広まったし。
ここ1年くらいは、既存のマスコミなんかでも、
そういった報道が広く行われるようになったし。
一般の人達もそう思っているんじゃないかなー、
と思っていたのですが。
桑江先生のこの文章
>現在では、母体死亡はまず医療裁判になるので、
というのは、ちょっとショックでしたね。
「お産は安全なものではない」、
という事は、医療関係者だけではなく、
昭和初期とか大正生まれとかの人達にとっては、
むしろ当たり前の事だ、と思われてはいるようですが。
若い方にとっては、「お産は絶対に安全だ」
という意識の人達の方が多いのでしょうかねー。
「お産は絶対に安全なものではない」
という事は、今の時代であれば、
お産の前に必ず医師は妊婦さんや家族に
言っているのだとは思いますけど。
それでも、裁判になってしまうのですね。
非常に残念です。
「医療事故被害者」という言葉がありますけど。
じゃあ、医師は加害者なのか。
っていうと、そうではないんですよ。
あくまでも、病気で亡くなった患者さん。
という場合も、非常に多いんですよ、実際は。
台風でも地震でも。
加害者がいなくても、人が亡くなる場合もあるでしょ。
医療での被害者にも、加害者がいない。
という場合も、あるんですよ。
というか、加害者がいない場合も、
相当たくさんあると思います。
お産の場合は、亡くなる方が健康で
若い方が多いですから。
亡くなって残念だ、という考えも非常に良くわかるのですが。
医者や病院が悪くなくても、患者さんが
亡くなる場合も多いのですからね。
そういう時に、遺族の方からの
怒りの矛先が医師や病院に向かってしまって。
結局、医療裁判になってしまった。
裁判になると、システムの問題上、
真実がわからない場合も多いですから。
結局、遺族の方達も納得できない。
医師の側も、加害者ではないのに、
加害者として扱われて。
裁判で、ものすごい労力を使って、疲弊する。
マスコミで犯罪者の様に報道されたら、
それだけで疲れ切ってしまって、
医療の現場から逃散してしまう。
という事も、実際にはありますよね。
そんな事になったら、結局は、患者の為にも
国民の為にも、医師の為にもなりません。
そうならないためには、
裁判以外の別のシステムを作る、
という事が重要だと思います。
無過失保証制度とか、
医療事故(安全)調査委員会とか。
そういうのが、そうなるんでしょうか。
方向としては、正しいのだとは思いますが。
各論に入ると、
「なんか別の方向に行っているんじゃないかなー」
というのが、個人的な感想ですね。
『「大学病院のうそ」 ~現役医師(Dr. I)が暴露する、大学病院の秘密』
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Dr.I様>
普通に考えて「本当のことを言ったら罰せられる」となったら、沈黙するのが当然ですよね(倫理的にはともかく実態として)。国民の権利として「黙秘権」が保障されている以上「真実を話させよう」としたら「真実を語れば罰せられない」ようにするしかないわけですが、その「当たり前のこと」補償されていない現状は悲しい限りですね。そのあたり、なんとか「普通の状態」になって欲しいものですが……。
普通に考えて「本当のことを言ったら罰せられる」となったら、沈黙するのが当然ですよね(倫理的にはともかく実態として)。国民の権利として「黙秘権」が保障されている以上「真実を話させよう」としたら「真実を語れば罰せられない」ようにするしかないわけですが、その「当たり前のこと」補償されていない現状は悲しい限りですね。そのあたり、なんとか「普通の状態」になって欲しいものですが……。

目の前に鞭を置かれて、正直に話す人はいない。
っていうのは、当たり前なんですけどねー。
それは、人間としての性なんで。
それは、しょうがないものとして、システムを構築するって事が大事だと思います。
っていうのは、当たり前なんですけどねー。
それは、人間としての性なんで。
それは、しょうがないものとして、システムを構築するって事が大事だと思います。
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(5)病院勤務医師の労働環境の改善が急務
(前略)
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